悠里世界の学生運動

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本項では悠里世界の学生運動を紹介する。

学生運動前史

ユミリア政権樹立まで

ユエスレオネ革命以降、ユエスレオネ共産党の実権を握っていたターフ・ヴィール・イェスカは権力掌握を進め、強力に集産主義体制を推し進めていた。しかしながら、党内勢力はイェスカ哲学的な政治の実現ではなく、国家統制を第一の方向性に定めて政策を進めていた。ピリフィアー歴2003年初頭辺りから計画経済には無理があるという議論が党内で始まり[1]、無断で条約締結をしたアレス・シュカジューは内閣勢力から排除された。ハタ王国の制憲議会の成立などへの補助において、スカルムレイ(女王)の排除をせずに「スカルムレイへの国民の信頼がスカルムレイの議会参入理由とされている」とするアレス談話を採用したことは、共産党が国際革命主義活動(理:Ispienermedarneust[2])を放棄したことを明白化させた。
ピリフィアー歴2004年に全体改革運動としてショレゼスコ(理: Xolesasko)を実行する。ショレゼスコは計画経済であったところ[3]に市場経済を導入し、貿易を自由化、検閲を廃止し、間接民主制の連邦議会を設立してユエスレオネ共産党は社会党に再構成された[4]。しかしながら、急激な体制変化の影響によって経済危機が発生した。準備銀行が貸し出し枠を狭めることで一定の安定を回復することができたものの、大量の失業者と共に生活困窮者や自殺者を生み出すことになった[5]。これに加えて、イェスカは民族保守運動(CUFL)の健全化[6]やマフィア、xelkenなどに対する弾圧によって右派に強い敵愾心を抱かせていたうえに、民衆からもその政治遂行能力に疑問が投げかけられるようになった。
ピリフィアー歴2004年6月19日、ターフ・ヴィール・イェスカは人民の姉パレードにおいてXelkenの青年に射殺される[7]。後任として、ユエスレオネ社会党に在籍していたターフ・ヴィール・ユミリアが継いで、社会民主主義体制を推進することになった。

新イェスカ学派の興隆

「ユエスレオネ革命は真にイェスカ主義の誤った発現であり、我々新イェスカ学派は憶論や応用憶理学のような人間疎外的な形而上学への反逆であり、連邦社会党の国家修正主義に対する非難として駆動する。 」
―『イェスカのために』

ユエスレオネ中央大学[8]哲学部を基盤としてアイン・シャント・ミナミラハ・リーツェを中心とするイェスカ主義の新しい方向性を模索する新イェスカ学派が興隆する。新イェスカ主義はアインの『イェスカのために』を中心にイェスカ主義を読み直し、理論化していった。現在の社会党への批判の方向性が強まり、イェスカが政権を担う中で自らの哲学思想から離れていったのは政党内にイェスカ哲学的な意味でのフェンテショレーが居たからという解釈がなされるようになった。同時に新イェスカ学派はレクタール・ド・シャーシュの憶論[9]やアンハルティア・ド・ヴェアン・アンヴェハルなどの憶理学[10]のような意識主義的なイェスカ主義の発展思想を批判する面もあった。
ユエスレオネ社会党の中にも新イェスカ学派を支持しようとする流れが生まれ、リュフィア・ド・ノウヴデリエ・ア・ファジュー・リュノウヴハイト[11]、レシェール・ファリーヤ・リュイユ[12]、ラヴィル・ド・エスタイティエ・ラタイハイト[13]、メイア・ド・ノーヴデリエ・メノーブ[14]などがユミリア主義の放棄、イェスカ主義への回帰を掲げた。しかしながら、新イェスカ学派を支持する社会党員の多くは、後にファルトクノア共和国に出向させられることになり、党内勢力としての実力を失うことになった。ファルトクノア共和国ではイェスカ主義研究会が設立された[15]が設立されたが、これは実質アイン思想の研究会であった。

ユエスレオネにおける学生闘争

連邦革命的学生同盟の設立と学生組織情勢

2005年4月12日、ユエスレオネ中央大学、天神大学フェーユ分校、第二ラメスト総合大学、アディア言語開発大学校に散在していたイェスカ主義系組織が合一し、連邦革命的学生同盟(理: Cierjustel fankasen xolanasch lersserss)を組織した。この"同盟"は別名ラ・シェーユステレスタン(理: La cierjustelestan)とも呼ばれるほどにユエスレオネ学生運動における大きな存在となった。当時のイェスカ主義学生組織は新イェスカ主義に影響されたものが多く、"同盟"もその系統を引き継いでいた。"同盟"第一回大会では「アイン・イェスカ主義の教導を受け、ユエスレオネ社会党の修正イェスカ主義を排撃し、民族国家主義的社会を変革する」との方針を議決した。ユエスレオネ社会党はこれらの新イェスカ学派的動きを警戒し、「教条主義的な冒険主義」との批判を加え続けた。各大学のユエスレオネ社会党系の学生組織(ユエスレオネ中央大学イェスカ主義研究会、旧共産党大学の諸組織など)もこれらの動きに反発した。また、社会党系でも新イェスカ学派系でもない、教法学的社会主義に回帰しようとするステデラフ系組織も少数だが存在した(ユエスレオネ中央大学アレス学派教法学研究会(atalberjal alestersenasch tvasnarlasopitlyr fon yueskestene/AATY)、旧共産党大学教法学研究会など)。

  • 新イェスカ学派
    • 連邦革命的学生同盟(CFXL)
  • 連邦社会党系
    • ユエスレオネ中央大学イェスカ主義研究会
    • 旧共産党大学の諸組織
  • ステデラフ系
    • ユエスレオネ中央大学アレス学派教法学研究会(AATY)
    • 旧共産党大学教法学研究会

東諸島共和国連邦における学生闘争

アイル共和国における学生運動

学生運動組織の分裂

アイル共和国の成立後、国内はヴェルガナ・トゥワイ・ズュザ首相による強権的な政策が推し進められていた。アイル語を国家言語として強制する独立国家戦争時代の言語ナショナリズム的な言語政策を強行し、アイル人中心主義やラネーメ・ナショナリズム的政策を強化していた。PMCF議会の方針がこれらに反して民族融和主義的になっているだけでなく、国内の主要宗教皇論タム・ツイの統括組織である皇論人集タム・ツイ・スック・ダツはヴェルガナの強行的な政策を批判し続けていた。
これに反発する形でアイル共和国の新左翼は勃興していくことになる。 アイル共和国に亡命したユエスレオネ難民の中には元々クワク共産党指導者であったリーウィア・フィライナ・フーン・ルーイが居た。ルーイはユエスレオネ共産党のイデオロギーを批判するとともにアイル共和国内でも勢力を拡大していったが、ショレゼスコの実施と共に連邦議会にそれまでのクワク共産党がクワク社会党となってユエスレオネ社会党との協調姿勢を見せたことから、左派連合[16]思想を批判する新イェスカ学派に転向した。
アイル共和国における学生運動は『革命序説』が2004年頃に流入するのを皮切りに連邦社会党系を中心に展開していたが、ルーイが当初宣伝したクワク共産主義系、転向後に広まった新イェスカ学派系、少数だがAATYとの繋がりがあったステデラフ主義系クワク社会党系、また党派に属さない無党派nefkontersergerss、略してnefkonと一般的に呼ばれた)の六系統に分かれ、またその下層にも個々の組織が乱立していた。

  • 新イェスカ主義
    • アイン・イェスカ主義学生同盟(リーウィア・フィライナ・フーン・ルーイ(Līwia filaina fūn lūj))
  • 連邦社会党系
    • 天神大学イェスカ主義研究会(川思いぬし いみか
    • イェスカ主義学生同盟(2005年7月に分離)
      • イェスカ主義学生同盟改革派(光山保人あいっと みすく
      • イェスカ主義学生同盟労協派(話軸てんらさくら)
  • ステデラフ主義系
    • 教法学的社会主義学生同盟(筆席火行かじか かねもか
    • ステデラフ的民主主義学生同盟(レナ・カクザ・ナホ(lena kakusa-naho))
  • クワク共産主義系
    • アイル学生保守チャショーテ(アーギム・ガートゥ・イーディタイム(ághim ghátu íditaim))
    • クワク共産主義学生会議(牛橋将ヨ・ミッ・ワイ(io2 mit uai1))
  • クワク社会党系
    • リベラル左派学生連合(チャーワイム・ガートゥ・ルーカザム(záwaim ghátu rúkasam))
    • 夜明けの光講読会(貝秋花ディッ・カッ・シュオ(dit1 kat2 xuo1))
  • 無党派
    • レヴェン社会哲学[17]研究実践会(ベルチェ・ルトゥウ・サナイ(belche lutwu-canai))
    • 学生・移民・難民の政治参画期成会議/CLAF(レシェール・カッサイユ(lexerl.kaccaiju))

アイル共和国内戦と学生運動

2005年8月21日にユエスレオネ難民たちはアイル共和国議会を包囲してデモ活動を行った。これに対して、トゥワイ・ズュザ政権は共和国軍を出動させ、議会入り口に集結した無抵抗のデモ隊を包囲した後に掃射した。8月21弾圧と後に呼ばれるこの行為は強烈な印象を学生運動家たちに与えることになり、危機感を覚えた天神大学イェスカ主義研究会の川思は2005年9月1日、諸勢力を糾合してアイル共和国の学生運動の統一組織であるアイル学生運動(冠国学人行集)を結成した。
ユエスレオネの政治難民によって結成された難民・移民評議会に加勢する形でアイル学生運動は圧政に対する対抗を開始し、弾圧を開始するトゥワイ・ズュザ政権への下野を目指して抵抗を続けた。全国で活発化した抵抗運動は文化省大臣である皇之上水たかまそらなの行政系統からの離脱によって、これに追従する形でタカマ・パルチザンと呼ばれる形になっていった。タカマ・パルチザン内部は政権を暴力で打倒すべきだとする暴力派と非暴力派に分裂することになったが、これはアイル学生運動内部での分裂を引き起こした。

暴力革命派
天神大学イェスカ主義研究会 イェスカ主義学生同盟改革派 教法学的社会主義学生同盟 ステデラフ的民主主義学生同盟 クワク共産主義学生会議 学生・移民・難民の政治参画期成会議/CLAF
民主革命派
イェスカ主義学生同盟労協派 アイル学生保守チャショーテ リベラル左派学生連合 夜明けの光講読会 レヴェン社会哲学研究実践会

タカマ・パルチザンに参加した市民たちの抵抗は国軍に圧倒的差で敗北を繰り返したが、PMCF連合軍の介入を予見した暴力革命派は議論を取りまとめることで最低限の抵抗を行う方向性を同意し、双方の意見を取りまとめた。学生運動家たちはPMCF連合軍と共にアイル共和国軍の攻撃に抵抗し、最終的にアイル共和国内戦はタカマ・パルチザン派が勝利し、皇之上水が首相となった。内戦における学生運動家の影響は強く、政変後も学生運動とその系譜を継ぐ政治組織の影響力は色濃く残ることになった。

再分裂と武装闘争の時代

脚注